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*アニメ『崖の上のポニョ』感想文・続き*

*アニメ『崖の上のポニョ』感想文・続き*(2008.8.22)
                 溝江純
      ☆「娯楽でいいんだよ映画は」っていうのは嫌いです」
  〜宮崎駿〜

☆「本当にぼくが感動するのはだね、ぜんぶ読み終ったときに、それを書いた作者
が親友で、電話をかけたいときにはいつでもかけられるようだったらいいな、と、
そんな気持ちにさせるような本だ」
  〜サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』〜

☆「いや、違う。きみたちだ」
  〜ピカソ
  ナチスの検閲官に『ゲルニカ』を描いたのはお前かと聞かれて〜

『崖の上のポニョ』を観てきた。
宮崎御大の最新アニメだ。以下、感想文。
なんのくったくもなく子どもたちが楽しめる、最上質の絵本のような物語、という
ような評価は、やや平凡に過ぎるかもしれないけれど、映画全体の「質」を
ざっくりと捉えて、観賞後の感想を無難にまとめるなら、こういう言い方になる
かもしれない。
角度を変えて、アニメ版『たとえ世界を失っても』というような言い方だって、
少々乱暴ながら、ざっくりと本質をとらえて、これもいい。
今回の宮崎御大は、何よりもまず、

最も気持ちのいい画を見つけてそれを描き出すことや、アニメーションの動きの
面白さ、楽しさを観客に提供することに徹底的にこだわっていて、

これが半端ではない。
ある動機に突き動かされて、異常なほど、気持ちのいい画、気持ちのいいアニメー
ションの動きに、こだわっている。
それだけにこだわった、と言ってもいい。
だから、映画の中で繰りかえされる「子どもを助手席に乗せた母親の、度を越した
無謀運転」などを取りだして、「これは無謀な運転だ」と問題視しても、
どうしようもない(確かに無謀運転で、指摘することは間違いではないが)。
最初から確信犯なのだから。
運転が無謀だ。母親として、あるまじき行為だ。しかも、こんな危険な運転を
する理由もない。ただただ、監督の宮崎監督が、車が走ってゆく気持ち良さ、
運転する爽快さを、物語をねじふせてまで描こうとした結果にすぎない。
この映画は、日常を突き抜けてゆくような絵の気持ち良さや解放感を描くことに
徹底して、徹底することで、結果として大きく偏っている。
偏っていようが何だろうが、そんなわけだから、スクリーンに映しだされる絵を
追っていくのが、気持ちいい。観ていて楽しい。ワクワクする。無意味に車を
ドリフトさせて崖を登ってゆく若い母親が、非日常なまでに(非日常なんだけど)
、かっこういい。
老女たちや子どもたちの何気ない所作、転がるバケツ、波のゆらぎにいたるまで、
宮崎駿監督によって

整理され強化されつくした現実を土台としながら、スクリーン上を大胆に動き、
解放感を撒き散らしてゆく。

喝采したい気分でいっぱいになってゆく。
どれだけディフォルメされていても動きの正しさは決して失わない。精巧を極める
観察眼に支えられているからだ。
絵の面白さ、演出の大胆さ、動きの正しさに安心して身を任せ、酔いつつ、
このようないびつな映画がどこからやって来たのか、ふと私は思考する。
これを「いびつ」と言っていいのかどうかはわからないが、とにかく「いびつ」
としておこう。
『崖の上のポニョ』のいびつさは、映画制作にかかわっているひとたちの、
なんというか、無理を承知であえて言葉にすれば、それは「気まずさ」のような
ものではなかったか。
映画を鑑賞しながら、その気まずさをたぐっていくと、映画全体がやんわりと
身にまとっている気まずさの対象が、浮かび上がってくる。
それは、映画『ゲド戦記』と、それと向き合う宮崎駿監督の存在だ。
これはかなり知られたことではあるが、スタジオ・ジブリとその周囲の関係者は、
2年前に、

『宮崎駿』を工業製品化する試みとその無残な失敗

を経験した。
宮崎駿の工業製品化というプロジェクトとして、映画『ゲド戦記』は始めから
スタートした。そして公開した。結果は、興行成績は別にして、プロジェクトは
完全に失敗に終った。
2年前、宮崎監督がプロジェクトとその結果に対して受けたマイナス方向の衝撃
と、激怒に近い感情が、残った。
それを知るスタッフたちの、宮崎駿監督に対する、「気まずさ」だ。
激怒に近い感情、とは、私が想像してみせただけのことだが、とはいえ、
2年間をかけてこのようないびつな劇場作品が現に作られ、一版公開されて
いるのだから。これは、激怒、としか呼びようのないものだったのではないか。
自分の身のうちに沸き上がる激怒の感情は、正当なものだ、と、もしかしたら
宮崎駿監督は考えたかもしれない。
宮崎監督が自分の内に確信として抱いている、人間に対するある種のあきらめの
ようなもの、日本という国のかなり暗い見通し、そして(矛盾するようだが)
ふつふつと沸き上がる正義感や、宮崎御大が世に問わずにおれない危機感と
いうものを、バラバラに分解して、そのうわっつらだけを拝借し、あとはいつも
のジブリらしい絵を描いていれば、

「ほら、みんなが求めているジブリらしさって、こういうことでしょ?」

そのような態度の果ての、無残な失敗に直面した瞬間に、宮崎駿監督の内部で、
『崖の上のポニョ』は命を宿らせた。……てなことを私は想像する。
……確かに、宮崎の息子さんであろうと誰であろうと、映画監督は失敗をする
権利がある。ただ、失敗をする権利とはまったく違う次元で、私が『ゲド戦記』
という映画から受け止めたメッセージは「宮崎駿の工業製品化」だったし、
そのメッセージに首を縦に振ることができなかったし、ましてや、宮崎駿監督は
首を縦に振るどころではなかったろう。
スタジオ・ジブリ(と、それを取り巻く映画業界)は、いつのまにか『宮崎駿』
という存在を、もったいぶってカーテンの向こうに隠されたままの
スーパーマシンのようなものだと思い始めていて、その思いを糧のようにして、
スーパーマシンの運転席から宮崎監督に降りてもらい、そこに誰かを座らせさえ
すればジブリの映画作りは、じゅうぶん機能するはずだ、と踏ん切りをつける
ように判断したのではないか。
宮崎監督の年齢を考えれば、『宮崎駿』の工業製品化は、一刻の猶予も許されない
段階にさしかかっているというのも確かだったろう。
後継者の不在、という問題は、宮崎監督自身も頭を悩ませていたかもしれない。
しかし、それにしても、

消費者の購買欲を新商品に向かわせるときの広告業界の手法をそのまま持ち込み、

映画を作って、それにジブリの『ゲド戦記』というレッテルを貼る、という
“心根”のありかたに、誰も疑問を抱かなかったのか。
「モノの違いのわかる」消費者への、おまちかねのジブリブランドのご提供だ。
こればっかりは、徹底的に否定されなければならない。
「みんなが求めているジブリらしさ、宮崎駿テイスト」というものを、完全に
封印し、削除し、なおかつ、これこそがジブリ、これこそが宮崎駿だと観客を
喜ばせること。
ただそのことのために、『崖の上のポニョ』は走り出した。
……『崖の上のポニョ』は、以上のような宮崎駿監督の個人的で、かなり
せっぱつまった問題意識につらぬかれた映画だというのが、私の理解だ。
だから、別の言い方をすれば、アニメ映画『ゲド戦記』に対する、

当てつけにみちみちた映画でもある。

(^_^;)
宮崎監督自身が確信として抱いている見通しの暗さや、強い危機意識や、特徴的
なニヒリズムというものは、今回の映画の中では、まったく、完ぺきに、その痕跡
さえたどれないように、影も形もなく、いっさい触れられることがない。

「工業製品化するためにキーワードに分解された宮崎駿」を正面から完膚無きまで
に否定するためです。

私は個人的に、『ゲド戦記』における食事シーンのできの悪さに深い失望を
味わった人間だが、今回の『崖の上のポニョ』の、

食事シーンの念の入れようは、なんだっ!

(^_^;)
このようなはっきりとした当てつけは、『崖の上のポニョ』を際限なく
どこまでもいびつにしてゆく。
助手席に我が子を連れた母親が台風の接近によって封鎖された道路を強行突破
するシークエンスは、そうした危険を冒して我が家に帰る理由というものが、
いっさい、しめされていないが、これなどは、『ゲド戦記』に当てつけること
に夢中になってしまって、理由を後からこじつけることすら、おざなりになって
しまったのではないか。
そして、この強行突破の一連のシーンは、絵としては、

「すみません、まいりました、ぐうの音も出ません!」

とひれ伏してしまうほどに、素晴らしい。
この映画を鑑賞している私たちが気持ち良くなればなるほど、ある種のひとたちが
気まずくなっていく。
その口には出せない気まずさというものを、作品全体にいきわたらせて、
そういう意味で、ちょっと奇妙な映画だと思う。
その奇妙さをこっそりと楽しみつつ、映画館でにやにやと笑う私がいる。
ニヤニヤした笑いは、やがてニヤニヤどころではなくなり、やがて満面の笑顔に
なってゆく(自分の表情には自信が持てませんけどね)。

物語としてこの映画を語りなおせば、再会のシーンとその一夜で、ひとつの物語
は終っている。
それ以後は、別の物語だ。
『千と千尋の物語』でもそうだったけれど、いったん終ってしまった物語を、
劇場公開作品として求められる「ラストの盛り上がり」に向かって、無理矢理に
力技でオチをつけてしまう、といういつもの方法論を、今回の宮崎監督もやはり
選択している。
ふーふーと息をつきながら、真っ赤な顔をして、物語をコントロールしねじ曲げ
ている宮崎監督に出会うたびに、
「商業的に成功を義務づけられているということは、こんなに無理を
極めなくてはならないんだなあ」
と半分だけ気の毒に思う。
後の半分は、

ちゃんと脚本を練ってから作ればいいのに、と……。

(^_^;)
なんにせよ、商業的に成功を義務づけられている、ということは、どうしても
どこかで、うさんくささが残る、ということだ。
まあ、このうさんくささの話は続けたい気もするんだけど、長くなるので、
別の機会にしましょう。

溝江純の *アニメ『崖の上のポニョ』感想文の続編* です。
思ったことが書けるのがネットのいいところだと思います。
面白いので貰いました、
  なんともユニークな感想文です! ","( ^^)/▽☆▽\(^^ ) チーン","


児童文学作家 溝江玲子

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コメント

溝江玲子先生から、溝江純さんの「崖の上のポニョ」の感想文が出ているとお聞きして、わくわくして今拝読しました。
テレビでこの映画のコマーシャルが流れるたびに感じていたもやもやしていたものが、純さんの文の中にある「ゲド戦記へのあてつけ」という言葉ではっきり致しました。テレビの画面の中で「ゲド戦記」の作者が「手書きでここまでできるのかと感心しました」と述べていました。コンピューターで制作した物の方が質が高いのだという前提で発言している、この本末転倒の発言に私はあきれました。父へのへつらいなのか、虚勢を張っているのか。自分は意地悪い物の見方をしているのかとこの件については保留にしていましたが、純さんの文を読んで同じように感じているお方がいると思ってうれしくなりました。
多額の宣伝費を使えるジブリ作品・・・宣伝できることの強さをまざまざと見せつけられる、その不快感。「崖の上のポニョ」はいろんな意味で私には考えさせられる作品です。純さんの的確な指摘に心地よさを味わいました。

投稿: Y.F | 2008年8月31日 (日) 11時58分

ご訪問ありがとうございます!
コメント嬉しいですhappy01

「ポニョ」小さい子どもらが喜んでいましたよ!!
色んな作品を世に出していく宮崎駿監督。
ますますお元気で、作品を作り続けていって欲しいと願っています!!
(o^^o)y
もう、次の作品を待っている私です♪♪

投稿: 溝江玲子 | 2008年8月31日 (日) 21時01分

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